雑学諸々−街道用語事典


間の宿(あいのしゅく)
間の宿の代表格でもある有松の町並み 江戸幕府の駅制下では、基本的に宿場以外での宿泊は禁止されていました。しかし、宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合、宿場と宿場の間に休憩用の「宿」が置かれることがあり、「間の宿」と呼ばれました。
 東海道沿いでは、小田原-箱根間の「畑宿」、由比-興津間の「倉沢」、池鯉鮒-鳴海間の「有松」などが間の宿としての町並みを残しています。
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一里塚(いちりづか)
畑宿の一里塚〜平成10年に復元されました 徳川幕府は、江戸・日本橋を起点として、主要街道にそれぞれ一里(約4.0q)ごとに一里塚を築きました。一里塚は、通常道の両側に築かれ、塚の上には榎木が植えられていました。
 しかし、その後の都市計画等によって次々と無くなり、現在では碑だけ残っているところが多いです。そんな中、街道の途中に現存しているところも何カ所か見られます。また、それと同時に復元している自治体もあり、街道歩きをしている者としては、とても嬉しい配慮です。
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追分(おいわけ)
御油の追分(姫街道との合流地点) 街道が左右に分岐するところで、各地で地名として定着しています。茶屋が置かれている場合が多く、休憩場所として利用されました。
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曲尺手(かねんて)・枡形(ますがた)
由比宿付近の曲尺手 曲尺手とは、宿場の出入口、または宿内の街道を鍵の手に折り曲げ、場合によっては石垣を組んでカーブ等をつくり、敵の侵入に備えたものです。
 また、多くの城下町を通るのが東海道の特徴の一つであり、城下町では宿内で何度も折れ曲がる場合が多いです。特に、東海道沿いの「岡崎宿」では27回も折れ曲がり、「二十七曲がり」と呼ばれています。
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川越し(かわごし)
安倍川 徳川幕府は、特定の川に橋を架けることを禁止し、川越の業務全般を川会所の管理下に置きました。このことにより、大河川を利用した防御ラインを作り出しているわけです。
 東海道沿いで橋が架けられなかった河川は、酒匂川(小田原)、興津川(興津)、安倍川(府中)、大井川(島田・金谷)などで、これらは人足による渡しで川越が行われました。現在、東海道沿いでは、大井川の川会所が復元され公開されています。
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高札場(こうさつば)
二川宿に復元された高札場 高札場は、通常、宿場の出入口に置かれ、幕府の禁制や法度などのお触れを掲示しました。
 現在は、宿場のシンボルとして復元されているところがあります。
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五街道(ごかいどう)
五街道の拠点となる日本橋 徳川幕府は、権力を掌握すると、日本橋を起点に東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道の5つの街道を整備して、直轄として道中奉行の管轄下に置きました。これが五街道です。
 東海道は、五街道の中でも、もっとも交通量の多い大幹線道路でした。江戸時代の旅人は、江戸から京までを通常2週間くらいで歩いたそうです。現代に比べると、かなりの健脚ですね。
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宿(しゅく)・宿場(しゅくば)
蒲原宿の町並み 宿場とは、徳川幕府の駅制の中で、人馬の継立と通信業務、宿泊施設の提供などを行いました。
 各宿場には、本陣、脇本陣、問屋などが置かれ、宿役の業務にあたっています。
 東海道では、「53次」と言われている通り、53の宿場が街道中にありました。甲州街道では「45次」で45の宿場がありました。ただし、宿場によっては2つで一つの宿場として機能していたところもあったようです。
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助郷(すけごう)
助郷〜寄馬跡−新居宿より 各宿場の近郊農村で、大規模な大名行列などの際、問屋を補って人馬を提供することを義務づけられていたものです。
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関所(せきしょ)・番所(ばんしょ)
箱根関所 関所とは、「入り鉄砲に出女」と言われるように、江戸に鉄砲を持ち込むこと、江戸住まいの大名の奥方が許可なく国元に帰ることを厳重に取り締まる江戸防衛のための施設でした。
 東海道では、箱根と新居に設けられており、新居には全国でも唯一当時の建物が現存しています。箱根の関所も復元され公開されています(平成18年度まで復元工事中)。甲州街道では、小仏と山口関所がありましたが、現在は石碑のみとなっています。
 また、関所とは別に、通行人を監視し徴税等を行う施設を番所といいます。関所が幕府直轄の機関であるのに対し、番所は各藩の管轄下に置かれていました。
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立場(たてば)
新居−白須賀間の立場跡 正式には、人足の休憩場所としたところでした。しかし、茶店(立場茶屋)などが置かれている場合が多く、一般の旅人も休憩に利用することが多かったそうです。
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問屋(といや)
 本陣、脇本陣と並ぶ、宿場の中核的施設の一つです。馬の手配や次の宿場までの荷物の受け継ぎなど人馬の継立を行い、いわば鉄道の駅のような存在でした。
 問屋役は、本陣の当主を兼ねることが多く、宿駅の管理にあたりました。
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旅籠(はたご)・木賃宿
品川宿付近の旅籠・釜屋跡(新撰組副長土方歳三も泊まったところです) 一般の旅人が利用した宿泊施設です。食事付きのものが旅籠、食事無しのものが木賃宿です。東海道中、旅籠の数が一番多かったのは宮宿で、最盛期には250もの旅籠が軒を並べていたそうです。
 旅籠には、客の相手をする飯盛り女が置かれている場合が多く、特に赤坂宿や藤川宿には、飯盛り女が多いことで有名でした。
現在では、東海道沿いの赤坂宿の旧旅籠「大橋屋」が、当時のままの姿で営業を続けています。
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本陣(ほんじん)
由比宿〜かつての本陣跡には美術館が 本陣は、身分の高い人が泊まる宿場の中心施設でした。大名のほか、公家、勅使、院使、宮、門跡、高家、旗本などが利用できたそうです。宿泊者が多い時は、脇本陣が本陣の代わりとして用いられました。
 本陣という名は、野戦時の本営に由来しているそうです。
 東海道では、現在、二川(愛知県豊橋市)、土山(滋賀県土山町)、草津(滋賀県草津市)の3つの本陣が現存しています。
 甲州街道では、小原宿(神奈川県相模湖町)の本陣が現存しています。
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見附(みつけ)・木戸・棒鼻
戸塚宿付近の見附跡の碑 見附とは、宿場の出入口のことです。門が置かれ、番所が設置されている場合が多かったそうです。木戸、または棒鼻(ぼうはな)とも呼ばれています。
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脇本陣(わきほんじん)
舞坂宿の脇本陣 本陣に宿泊者が多い時など、本陣が対応しきれなくなった時に、本陣の代わりとして利用されました。通常は、一般庶民を宿泊させていました。
 東海道では、現在、舞坂宿(静岡県舞阪町)に現存しています。
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2002.05.12現在
2003.12.02追記


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